スタッフの児玉です。
何でもないことなのに、いつまでも残っている記憶があります。
中学生の頃、「機動戦士ガンダム」のプラモデルが流行ったことがありました。クラスメイトが、つくったプラモデルを学校に持ってきていて、休み時間に見せてもらったことがあります。
おどろきました。お店に飾っても遜色(そんしょく)ない出来栄えだったのです。塗装がじつにきめ細かくリアルで、それでいて見えないところには手をかけず、ごく簡単に仕上げるという手際よさでした。
その彼は、勉強はそれほど得意ではなく、運動、部活でも目立つほうではありませんでした。そんな彼が、そうした才能を秘めていたことに目を瞠(みは)りました。
ひとの才能は、うわべで判断したらダメだと学んだ気がします。
こうした比較は、おなじ年代が集まる学校、おなじ仕事に就く会社など、グループでおなじ行為をする場で浮き彫りになります。
鳥取/本部でのトレーナーの研修の際にも、これを痛感しました。
研修では、年齢の差はあれ、同じ座学、トレーニング、レポートに取り組みます。身体のやわらかい同期もいれば、医療系の出身で知識の豊富なひともいました。
極めつけは、動作表現に秀でたひとでした。マシンでの動作説明を聴いて、すぐさまできるひとがいたのです。
器用なひとというのは、じっさいに存在します。
学んだのは、「負けていない」とムダに張り合うのではなく、「負けない」ために相手のよさを吸収することでした。
そのひとの過去の時間は、他者にはわかりません。そのひとがトレーニングに懸けてきた時間は、傍(はた)からは見えないのです。
もともと器用なひともあるでしょうが、当然ながら、時間をかけて工夫してできるようになった部分もあるはずです。そう思って見ることで、学べる部分も浮かび上がってくるのではないでしょうか。
トレーニングを通して、目の前のひとの背景を想像する力を持てるなら、すばらしいことです。そこから、じぶんのことも見えてくると感じています。
P.S.
『アントニオ猪木と新日本「道場」最強伝説』(宝島社)。
むかしから、ヒーローものやプロレスなど、じぶんに不可能なことをできる存在に憧れました。とくに、「道場」「特訓」といった、光の当たらない場所での取り組みに魅かれます。いまでも、光の当たる場所を支えるのは、陰の部分だと信じています。

